04 タリテの森

「ごはんはちゃんと食べてね。きちんと休みも取りながら旅をして、無理は絶対にしないようにね。
 あと、あんまり我侭言わないこと、それとそれと……」
「ああもう分かったから、マリ。恥ずかしいからあんまりそういうこと言わないで」
「でも、心配で」
「手紙を書くよ。危ないことも、無茶もしないようにする」
「気をつけてね」
「一人じゃないから、大丈夫だよ」
彼女は、そっと、ほほえんだ。
心のどこかで、けれどきっとそんなことは無理だろうな。小さく囁いた。

鳥の鳴き声があたりにこだまし、小さな虫の鳴き声が葉を揺らす。
茜色に染まっていた空は俄かに暗くなり、紫色の霞がゆっくりとあたりを包んでいく。
早朝に村を出てからもう何時間歩いただろうか。
山を降り、平地を進み、朝霧の向こうに見た山へと足を踏み入れたのは数時間前のこと。
赤がね色に染まりだしたのは暫く前のことだったが、東の空はもう夜の色だ。
気温は変化を実感させないままじわじわと低下し、ふと風が吹いた瞬間、唐突に冷たさを味あわせた。
「そろそろ日が暮れるね……もう休もうか」
頭上を飛ぶ鳥の影が黒く落ち、木々が道を覆うように暗い色を落とし始めた頃に、スバルは小さく行った。
前を歩くハヤテは地図に落としていた視線を空へと向け、足を止めた。
「今日中に隣村に着けるかと思ったが、ちょっと甘かったかな」
「のんびり歩いたものね」
ハヤテは苦笑いすると再び地図に視線を落とし、位置を確認した。場所はタリテ。低い山の中腹にあたり、周辺は木々茂る森だった。
スバルは山道からそれて茂みへと踏み出す。葉の擦れる音が鳴り止めば、辺りには一瞬沈黙が訪れた。
川の音。
かすかに聞こえるそのさらさらとした音に二人は顔をほころばせると、どちらからともなく顔を見合わせた。
決まりだ。スバルはがさがさと茂みの奥へ草を掻き分けて進み、ハヤテもそれに続く。
木の枝が好き放題に、しかし一様に天へその先を向けて伸びている。
腰の枝ほどもある草を、傍にさく小さな花を、木の幹に身を潜ませる不思議な虫を。
それらをなんとはなしに眺めながら歩けば、すぐに開けた川岸へと出た。
掌の大きさに満たないような細身の魚が、川の流れにゆるやかに逆らって泳いでいる。
淡い月の光と、暮れた夕陽の名残で川面が不思議な色に光る。それがきらりと一瞬光り、スバルは眩しそうに目を細めた。
「魚がいるね」
「え、ああ、まあ川だしね」
ザックから干し肉を取り出しはじめたハヤテは、とぼけた様に言った。視線は手元を見たままだ。
彼女にはまだ言っていなかったが、彼はあまり魚が好きではなかった。
食べにくいのが良くない。身と骨を分けるという作業が単純に面倒くさいのだ。
ならば一緒に食べてしまえば良いのではないか。妹が昔言ったが、それはそれで痛いから嫌だった。
スバルはにこにこと笑顔で、鼻歌なぞ歌いながら茂みから手頃な枝を一本二本と拾い上げる。
嫌な予感。
「美味しい魚が釣れるといいね」
「……そうね」
ハヤテが力なく言うと、スバルは首をかしげて、そしてまた笑った。

彼女の手際たるや熟達したものであり、ハヤテはスバルのその慣れた手付きに思わず見入ってしまった。
手近な枝は良くしなり、しかし簡単には折れない丈夫さを感じさせる。それに細い糸を巻きつけ、釣り針をくっつける。
糸はハヤテの見たことのない類のものであり、光に反射してきらきらと透けた。絹糸のように柔らかだが、どんなに引っ張っても切れはしない。
その簡易な釣竿を彼女は二本こしらえると、彼女は一つをハヤテに渡し、さっさと岩場に腰掛けた。
「俺、釣りやったことないんだけど」
「うちもほとんど無いよ」
困ったようにハヤテが言うと、彼女はケロリと答えた。手元の岩を次々とひっくり返す。
細く長い、名も知らぬ虫を見つけると、彼女はそれを指先でつまみさっさと釣り針に通してしまった。
因みにハヤテはその一連の動きをなんとも嫌そうに見ていた。彼は軟体の虫が嫌いだ。
「その割には手際が良いね」
「知り合いがやっているのを、良く見ていたから」
見よう見真似でやってみると、意外といけるものだよ。スバルは少し得意そうに言った。
彼女があまりに生き生きとやっているものだから、ハヤテはそれに水をさすことなんて出来ない。そう、とても出来ない。
ハヤテは眉をしかめながら岩をめくり、彼女を真似て小さな虫を針に通した。それを適当に川面に投げ込んでじっと待つ。
「……疲れた?」
最初に口を開いたのはスバルだった。静かな沈黙は心地よく、そこに響いた声もまた静かだった。
「少しね。こんなにまともに歩いたのは随分と久しぶりだから、さすがに」
「旅立ちの日が晴れていて良かった!これで雨だったら最悪だったね」
「それは確かに」
雨の日の山道、それを少し想像してハヤテは顔をしかめた。
今の御時世、まともに歩いて旅をする人は多くはなかった。近年の流行は船だ。
海に面した國がほとんどなのだから、外国に行くのだってそんなに苦ではない。しかし安価でないのがネックだった。
「スバルはさ、……」
「?」
スバルはすぐに振り向いた。
彼女の薄藤色の髪は夕陽の色が混じって不思議な色に染まっている。あえて言うなら鴇色だろうか。
「何故国司に?」
「ああ、それは」
スバルは少し考えるように間をおいた。
鳥一羽が悠々と空を横切る。それが視界から消えるまで、じっくりと彼女は時間をとった。
「それは、簡単に言うなら今やるならこれだ、と強く思ったからかなあ」
「?」
「一座で踊りを踊るのも良かったし、他にも武術を学んだりとかやりたいことはあったけど
 国司を立てるという報せを聞いたら、もうそれが今やりたいことだと強く感じたわけよ」
なるほど。少し曖昧な答え方のような気もするが、とても分かりやすい答えだ。なりたいから、なる。
しかし何故?ハヤテが聞く間もなく、スバルは言葉を続けた。
竿を気まぐれにちょこちょこと揺らして、魚を驚かす。
「お金を貰って旅をする。旅の最中に得た知識はきっと私の役に立つ。
 友達にも会いにいけるし、欲しいものだって買えるし、家族に会うことが出来るかも。
 ……損なことなんか一つも無いのに、こんなに素敵なことってそうなかなか無いと思わない?」
くすりと笑ってスバルが言う。
「なるほど」
声に出して、ハヤテは感嘆の声を漏らした。

日が暮れるのは早く、夕食を終えた頃にはもうすっかり日は落ち、あたりは冷え込んでいた。
因みに釣りはというと小さな魚が五尾。うち二尾はハヤテが釣り上げたので初心者の彼にしてみればなかなかな成果である。
その小魚をこんがりと焼き、結局頭から食べる。自分で釣り上げたからかさほど小骨は気にならなった。
それと数切れの干し肉と今朝持たされたパンと蒸かし芋。野外の晩御飯としてはなかなかに豪勢な品々だった。
腹も満たされたところですぐに寝る支度に入る。
獣避けの香をたき、焚き火を絶やさぬように枝を拾い集めておく。
ボロ布を一枚敷き、ザックを枕に横になる。厚手の上着を掛け布団にしてスバルは丸くなった。
「少し大きい町に着いたらマント買わないとね」
「これ以上寒くなったらさすがにつらいもんなあ」
風避け、雨避け、日避け、冷気を塞ぎ熱気から守る。
旅に欠かせない道具を忘れていたことをハヤテは知った。
しかしこれから西に歩むにつれどんどんと気候は暑くなる。その中でマントを着込むことに少しげんなりもした。
そのとき、少し強めの風が吹き、焚き火がぼうと燃え上がった。
パチンと音を立てて枝がはぜ、赤い光がじわじわと広がった。
「ちょっとその枝の量じゃ心もとないな……」
「……」
積んである枝の束を見てハヤテがぼんやりと呟く。
スバルは小さく身を竦ませると、上着を深々と被り、目だけをそっとハヤテの方へと寄越した。
沈黙。 「……枝拾ってくるから……先、寝てて良いよ」
「ありがとう!」
勢い良く上機嫌な声が届く。
ハヤテは軽く溜息をつくとゆっくりと瞬きをする。いもむしのように丸くなったスバルの頭をもさもさと撫でて立ち上がった。
木立の中に足を踏み入れればそこに光はほとんど届かない。足元の草木に気をつけながら一歩二歩と進んでいく。
月の光は樹木の葉に阻まれ、一歩進むごとに道はどんどんと暗くなっていく。
足元の枯れ枝をハヤテは一本二本と拾っていく。太めの、乾いた枝。ガサガサと葉を揺らしながら身を屈ませる。
腰の痛みがじわじわと響いてきたところで、ハヤテはすっくと立ち上がった。
冷たい風が頬を撫ぜ、かすかな月明かりがそっと彼を照らし出した。
−−そのとき、木々の隙間を一つの影が走りぬけた。
「!?」
ハヤテは焦って身をそっと屈めた。腰につなげてある連結棒に軽く手を添え注意深く木々の奥を見つめる。
雲が流れ、月の光がやんわりと降り注ぐ、二つの瞳がハヤテを見つめていた。
紫色、いや白色だろうか。不思議な色で二つの光が彼を捕らえる。だんだんと輪郭がしっかりとしてくると、その黒いシルエットがはっきりと見えるようになった。
しなやかな四肢、黒色の毛並み、光を受けて白く光る。それは狼のような、不思議な獣だった。
獣が小さくうなる。
ハヤテは身を竦ませ、慌てて連結棒を一つに繋げた。
緊張。
沈黙。
獣はハヤテをしっかりと眼で捉え、見極めるようにじっと動かなかった。
「おい」
不安に思いながらハヤテは声をかけた。
どちらが先に動くか。仕掛けたほうが良いのか、逃げたほうが良いのか。
それでも獣は動こうとしない。しばらくの沈黙の後、やっと相手は口元ゆるりと開いた。微かに。
ヒュー
小さく息が漏れる音がする。口笛のような軽い音。ハヤテはぼうっとしったまま立ちすくんでいたが、はっとして連結棒を握り締めた。
気づいた時には既に獣は身を翻していた。軽やかな足取り、少しだけ葉音を言わせて暗闇に消える。
気ままに揺れる、美しい尾が間もなく視界から消え、ハヤテは全身から緊張が抜け落ちるのを感じた。
握り締めた手はにわかに汗ばんでいる。目を固く閉じ、ゆっくりと開く。
大きく息をした時に初めて、自分がどれほどこわばっていたかが分かった。
野生の、しかし優美な、そして獰猛な視線。観察する瞳。
「……助かった?」
果たしてそれは危機だったのだろうか。ハヤテの呟きは闇に落ち。
いつの間にか、取り落とした枝がカラカラと音を立てた。





ちょっと時間がかかりましたが無事に第四話。旅をしたことが無いので、想像しながら描くのは楽しかったです。
今回のお話では旅生活を描きつつ、獣さんを出すことが狙いでした。
なんで出てきたのか自分でもちょっとわかっていない獣さん……これからどうなっていくのやら。
それにしてもあまり横暴でないスバルを描くのは新鮮でした。本当はもっと暴君のはずだなんだけど、あれ?




2007/04/08 改 Haruco